常に感謝の心を持って

才能を育んだのは、そんな全てが手探りの環境だった。スケートを始めて2カ月で臨んだデビュー戦。「衣装って、どうやって作るんだろう?」。頭を悩ましていると、初瀬が言った。

「高校の文化祭で使った、よく伸びる布がある!」

初めての衣装は、文化祭で余った布で作ったものだった。テレビで競技を見られるのは、NHK杯程度だった時代。当時のコーチにスケートの基礎を習いながら、その都度、うまくなるための術を探した。市の広報誌で見つけたエアロビクス教室に参加したこともあった。縛られない自由さ、踊る楽しさがあった。高橋は母が働く理容店の鏡に向かい、振り付けを何度も繰り返した。母や初瀬に言い聞かされたのは、常に同じことだった。

「楽しく滑りなさいね。ジャッジさんは寒い中、あんたの演技を嫌でも見ないとアカン。こけたら、すぐに立つ! しんどい顔しとったら、周りのみんなもしんどくなるからね」

「会場の通路で練習することもあるでしょう? あんたのために(脇のベンチに座り)伸ばしていた足を引いてくれる人が、どれだけいる? 半歩でも、1歩でも『この子のために足を引こう』と思ってもらえるのも、才能なんだよ」

世界でも愛された才能

中2で出会った長光も、自分の枠組みだけで高橋を縛らなかった。その方針に迷いはなかった。

「この子の才能をしっかりと世界の人に見てもらいたい。いろいろな人の力を借りたい」

倉敷翠松高時代の高橋大輔(初瀬英子さん提供)
倉敷翠松高時代の高橋大輔(初瀬英子さん提供)

2人で米国に渡って武者修行。モスクワで半年を過ごしたこともあった。古いホテルで2人暮らし。海外からは高額すぎて、電話も簡単にかけられなかった。日本との連絡が遮断されているような環境だった。モスクワは午後3時には外が暗くなる。言葉や食事の苦労も重なり、思春期で心を閉ざしてしまうこともあった。やり場のない不満から、時に衝突することもあった。それでも決して背を向けることのできない時間を乗り越えたからこそ、2人の距離は縮まった。高橋は表現の幅を広げ、指導の引き出しを増やした長光も教え子の長所を理解した。

「どの先生たちも大輔の才能を非常に高く評価してくれました。何よりも人間的に愛してくれた。英語もなかなか通じないから『何かあれば大変だ』となって、とにかくケガと病気をさせないことばかりを考えていました。それでも世界を回れたことは、ありがたかったです」

倉敷を巣立ち、04年に関大へ入学すると、長光の自宅で生活することとなった。5畳ほどの部屋を与えられ、二人三脚で力をつけた。大学2年の05年からはロシア出身のニコライ・モロゾフによる指導も受け、初出場だった06年トリノ五輪で8位入賞。日本のエースへと駆け上がり、4年後のバンクーバー五輪で表彰台が期待される立場となった。

だが、その道中で予想もしなかった試練が待ち受けていた。(敬称略、つづく)【松本航】

(2020年1月21日、ニッカンスポーツ・コム掲載)